代表からのメッセージ
私は、家業を継いで3代目となりますが、創業から現在まで会社がどう成長し変化してきたか、また、これから私たちはどうあるべきかを語らせていただきます。
戦後、地域の材木店として(内田品吉の時代)
内田材木店は、昭和30年に、私の祖父 品吉が創業した会社です。祖父は、30歳で徴兵され病気で戦地から送還されて、しばらく内地で療養してから終戦を迎えました。戦後は、戦前に県職員として林務課で働いていた関係で、進駐軍の労務管理事務所で昭和24年頃まで働いていたそうです。その後の人員整理の際に退職して製材業の見習いをしながら木材業を志したと聞いています。
昭和26年頃には、個人取引を始めて、父である現会長 耕一が高校に入学する頃に「内田材木店」の商号で木材業を始めました。会社沿革のなかで、昭和32年会社設立としていますが、この際に、「有限会社内田材木店」となって法人化しました。
祖父は、戦争の後遺症で目が悪く車の免許が取得できなかったので、大八車(だいはちぐるま)に電信柱を積んで、祖父が牽き、父が押して、高低差のある道のりを何キロも二人で配達したエピソードを聞きましたが、家族で支えた稼業であったことには間違いありません。
会長は、高校卒業してから3年ほど経ったころに、建築の専門教育の必要性を感じて、働きながら夜学(工学院大学)に通い始めます。当時は、夜間の大学教育を受ける前に二年間の専修科があったようで、昭和34年から6年間夜学に通ったそうです。大学に通いながら昭和35年には、二級建築士に合格して、在学中に初めて建築請負をさせていただき、これが現在の家業の母体となる始まりになります。
ですから、材木店としての小売りだけの商売は、創業から10年ほどで、その後は、会長が一級建築士免許を取得したことを機に、材木店業と並行して本格的に工務店業に移行していきます。当時、大工さんの工務店は数多く存在しても、材木店が設計して工務店業を営む形態は、ほとんど例が無かったと聞いています。
左:先代の会長 内田品吉 50歳の頃。その場を和ませるのが上手だったそうで、人に好かれる性格だったと聞いています。78歳で他界しました。
右:内田材木店 会社設立の頃。この頃は、入口が道路に面していました。県道は、まだ舗装されていない砂利敷きの道路だったので、車の泥はねで店舗の入口が、とても汚れたと聞いています。
高度経済成長期、地域の工務店として(内田耕一の時代)
今でも会長は自慢しますが、地域の地図を何も見ないで描けるそうです。何処の道がどう曲がって、何処に繋がっていて、何処にどういう方が住んでいて、という具合に材木を配達していた経験から地域の地図と顧客の関係を自らの頭の中に作成していたといえるでしょう。これは、お客様のことを第一に考えている会長ならではのエピソードといえると思います。
また、当時、木拾いをして大工さんとお付き合いしていた経験から住宅の材料と価格に精通していたので、自らが設計することで、顧客に図面と仕様と見積を持ってお約束することができ、「内田材木店は追加を出さないで請負ができる」と評判になって、少しづつ地域に工務店としての信用を得ていくことができたと聞いています。
その後は、地域のボランティアを積極的に引き受けながら、持ち前の営業力で地域の皆様から気軽に住まいや事業のご相談いただける存在になり、「良質な住宅を良い材料と良い技術で手ごろな価格でつくる工務店」として、地域で成長してきました。
60年以上の歴史のなかでは、工場やビジネスホテル、クリニックや集会所などの施設の建設にも携わり、工務店としての経験値を増やしていくこともでき、「内田材木店の家」は、地域の良い家の代名詞として語られた時代でもありました。
左:会長 内田耕一。現在の内田材木店の礎をつくった功績者。とても穏やかな人柄で、地域の方から愛称で呼ばれて親しまれています。
右:現在の事務所併用住宅の上棟時の写真。古式からの幣串(上棟を祝う柱)や破魔矢が飾られている。
地域の代表的な入母屋屋根の母屋普請の家。現在では、このような材料を揃えるのも難しい。とても良い仕事をたくさんさせていただきました。
これから、uchida建築アトリエの目指すもの(内田一也の時代)
私は、内田材木店の三代目になりますが、家業を意識したのは小学生の頃で、当時の文集を見ると、なりたい将来の職業として、「建築士」と書いてあります。
大学(日大理工学部建築学科)では、建築デザインの研究室に所属していましたが、卒業後は住宅の設計をしている建築家のもとで修業したいと思い、建築家・椎名英三さんの事務所でお世話になりました。椎名事務所での修業は、楽しくも苦しくもあったのですが、一番思い知らされたのは、図面を描く為には現場を知らなければいけないのに、何もわからずに図面を描かなければならない難しさでした。そして、何よりも建築がつくられる材料についても何も知らないという事実でした。ですから、当時から現場の情報が近いところで、建築の仕事に携わりたいという気持ちが強くありました。
椎名事務所を退所して、家業である内田材木店に入りますが、設計専業をしようとは考えずに、設計者の目で木材や建築資材に積極的に触れ、身体で理解し、いかにつくる現場を美しく保ち、職人に聞かれたことには即座に答えが出せる様にと、現場、顧客、会社と仕上りのバランスを調整するように心掛けたしごとをしてきました。
私が、内田材木店の屋号である「uchida建築アトリエ」というブランドネームを掲げた理由には、自身が辿った経歴と内田材木店の歴史が育んだバックボーンが重なったときに、木材と設計と施工を良く知った経営者からなる、設計事務所でもない、工務店でもない、「職人と設計者が協働する“建築アトリエ”としてのスタンス」が大きな意味を持って浮かび上がってきたからです。
uchida建築アトリエは、木の家を高級品としてつくるつもりはありません。木を良く知る私たちだからこそできる「設計の工夫」による、耐久性、メンテナンス性、デザイン性を備えた「美しい実用品としての住まい」を目指しています。そして、私たちの経営理念である「人間大事を掲げて、健やかで幸福な暮らしに貢献する。」ことを、地域に必要とされる「ものづくりと暮らしの工務店」として描き、いつまでも皆さまのお役に立てることが、私たちの将来の姿でもあります。
代表取締役 内田一也